ステージ3

つい先日のこと、とある集まりに来ていた男性。

その男性の奥様は元同僚で、奥様よりあとに旦那様を知ったわけだけど、その旦那様とももう何年もの付き合いになる。

集まりのある4日前、私はイベント出展のために某会場に。そこにご夫婦でイベント会場へやってきて色々と話をして帰って行った。両人とも元気そうで、特に奥様の方とは2年ぶりくらいだったのではなかろうかと思う。

4日後のその集まりの時、ご主人の方から「ちょっと朝からヘビーな話をしてもいい?」と聞かれOKを出した。

「うちの奥さんが、子宮頸がんでステージ3だった」

と、こちらに気を使ってかどうなのか、明るくにこやかに話された。
なぜ私に?と思った。
何年も知ってはいる仲だけど、年に3回ほどしかご主人には会わないし、ましてや奥様の方は、同僚だった、と言うだけで部署も違ったので話すこともあまりなかったし、もちろんプライベートでの付き合いも全くなかった、それなのに誰よりも先に私に知らせてくれた。

つばきさんだから、と。

私の旦那さんもその集まりにはいたけれど、今は余計な心配をかけたくないから、というご主人の意向を聞いて、私からは誰にも言わないので、そちらのタイミングで話そうと思ったときに話して欲しい、と伝えた。

命の話は時にとても言葉を選ぶ話となる。
言葉を選ばない時がある、と言うのは言い方が良いか悪いか。ただ、自分が死と遠い存在と思っている人と話すときは、軽く聞こえる時があるのも事実。

イベント会場に来てくれたとき、ちょうど診断をされた日だったとか。

奥様はいつも通りだった。
笑って、私が自分用に買ってきたキャラメルマキアートを差し出すと、ありがとうと素直に受け取ってくれたときも笑顔だった。

私になにが出来ると言うことも無いかもしれない。
ご主人が私に話したことを奥様が知らないかもしれない。
(多分それはないんじゃないかと勝手に思っている)
集まりの翌日、セカンドオピニオンを受けると言っていたので、また連絡を、と伝えた。

こういうとき、私はだいたいいつも自分の人生とも向き合う。
それはもう、癖のようなもの。

此岸に在る僕

 遅れて生まれてきた蝉が鳴いている。真夏に多くの蝉に混じって鳴いているのとは違う。僕なら寂しいだろうか、誰か周りにいないだろうかと探してみるか、それとも――。『一』という数字に何を思うのか、人を想像すると孤独の世界を思い描く僕にはこの蝉の短命を少し羨ましくも思えてくる。

 墓地へ向かう坂道でその一匹の鳴き声にふと立ち止まった。鬱蒼と茂った木々の先に見える光、トンネルのように薄暗い坂道を少しずつ歩きながらすっかり秋めいた空を見やり、人の世界から離れた場所に立っている気分になって少しは君に近づけただろうかと考える。

 坂道を登りきると彼岸花がところどころに固まって咲いていた。毒々しい見た目の割に六枚の花弁から開いたその一本一本の繊細な作りと色に、君が一番好きな花だと言っていたことを思い出した。

 墓参りを終え、彼岸花の近くに腰を下ろした。後ろからはまだ蝉の鳴き声が続いている。下に広がる家々や遠くに見える国道を行き交う車を見ながらゆっくりと流れる時間に身を委ねた。
 しばらく時間を忘れていたような気がしていたけれど、時間は常に流れていて誰もが同じ速度で進んでいる。世界中から見ると僕の時間の流れ方には誰も見向きもせず、僕はただ直向きに自分の時間軸を進んでいる。そう思うと何も焦らなくてもいいと思えてくるし、いつか君に会えるような気がしている。

 寂しさを募らせると孤独に苛まれて悲嘆に暮れてしまう。そういう時は決まって流れる時間は長いもので、僕は、僕の世界の終わりを待ち望んでいる時でもある。君がいないから、そうではなく、僕は君と出会うずっと前からそうだったんだと思う。

蛍光ペンから

 蛍光ペンの細い方を使うことがないので、太い方だけのものはないだろうかといつも思う。5色セットで買ってはみても使う色はたいがい決まっていて、使われずに机の中でゴロゴロしている色もある。
 ピンクは最も使い勝手のいい色。その次に青。その他3色、黄色、緑、オレンジはあまり出番が回ってこない。一枚の紙の上で色が混ざり合ってしまうと賑やかしすぎて、ポイントを見つけられなくなってしまう。

 要するに自分は “物を使いこなせない人” だ。

 毎年この時期になると、来年の手帳をどうしようかとあれこれ悩んで買うのだけれど、今年は日付の入った手帳を使うことをやめた。手帳の使い方を調べてみても、上手な人は本当に綺麗に、そして可愛く使っていてさぞ開くことも楽しみだろうと思えるような手帳に仕上がっている。
 そして自分の手帳に目を落とすと、字も汚ければ絵もかけない。急いでいる時の買い物のメモのような、チラシの裏のような手帳になってしまう。そしてすぐに飽きて開かなくなってしまう。
 シールやマスキングテープで飾るお手軽な可愛らしさに手を伸ばしてみても、それは使い手によってどうとでもなる、そう、可愛くもなれば、ただの醜い頁になることもある。

 もちろん後者になるのだけれど、今回のノート(手帳というよりはB5サイズのフリーノート)の目標は『とりあえずなんでも書いておけ』にした。まずはたまにでも良いから開くこと。
 日付が入っていないので、とりあえず好きな頁にカレンダーを書く。しかしこのカレンダーが2ヶ月目から面倒になってくる。おそらく来年の途中から、もしかしたら早くも今年度中に挫折しかねない面倒な使い方をしている。※ノートは気に入ったものを最近ずっと買っている。

 緑の蛍光ペンでノートに線を引いてみた。

「文系と理系の交差点に立てる人こそ大きな価値がある」
   ポラロイド社 エドウィン・ランド スティーブ・ジョブズP4

  あまり上手い引き方ではない。さらにこの芸術的センスの無さはきっとスティーブ・ジョブズは遠慮なく罵倒することに間違いないと思う。

顔に映し出されるなにか

 数年前、お腹の具合が悪いんじゃないのか?いきなりそう言ってきた父親に、最近あまりよくないことを伝えた。似たような会話を2日続けてから、おや?と思い自室でパソコンに向かう父親に聞いてみた。
 なぜお腹の具合が悪いことを知っているの?
 今まで一度もそんなことを言われたことなどなかったのに、と不思議に思ったから声をかけてみると、なんとなく顔に出ているというか……、という曖昧な答えだったのでさらに不思議に思ったけれどそれ以上は何も聞かなかった。

 そして同じことを今また繰り返している。父親ではなく君と。君には僕の何が見えているのだろうか。僕の顔には何が映し出されているのだろうか。

 現実的な話をすると、足つぼマッサージに行ったらマッサージ師に胃腸が特に弱っています、と言われたので間違いでは無いのだろうけれど、マッサージ師は僕の顔を見て言ったのではなく、足の裏から感じたことを伝えてくれたのだろう。

 顔に出ている“なにか”を僕も見てみたい。いくら鏡を覗き込んでも僕には顔しか写っていないしその奥は僕の心があってそれは見ることは出来ない。もちろんだけど、僕は人の顔を見てそんなことは分かるはずもなく、表情を読み取ることでさえ不安がある。

 デトックス用のお茶はあまり口に合わない。それに、お腹の具合も良くなってきた。今日から君の顔を観察してみたいと思った。

魂の行方

 先日、祖母の一周忌を終えた。
 坊主がお経を唱えた後にくどくどと人の家庭を根掘り葉掘り話す姿を見たり(この坊主には毎回うんざりさせられる)、法事やお寺へ向かう姿勢などを話している最中にふと思った。

 仏教よりの話になるけれど、葬式や法事など、故人(死者)を弔う儀式は、その体を成したまま本来は生きている世界、いわゆる此岸に生きる者の懺悔や慰めのためだけに行われるものではないかと。

 死者を知ることは出来ない。イタコ、霊能者などというシャーマニズムについて否定をするつもりもないし、どちらかと言うと興味はある方だけれど、善悪などの話でもなく、ただ自分の胸の内にすんなりと落ちてくれるのは、生きている人のための儀式であるという解釈の仕方。

 未だに祖母の遺影を存分に眺めることが出来ない。
 法名もなかなか覚えられない。

 死が終わりであってほしくない、と思うのはなぜだろう。魂は巡る。でも現実的には死は終わりだと思う。生きた人の心の中に生き続けようがどうしようが、一旦は続けることの出来ない終焉を迎えることに代わりはない。

 心の中でごめんなさいと繰り返し、同じことをしないでおこうと気をつけながら生きていく。人は人に重い何かを残していく。魂ではなく生きていた証を深く残していく。

 自分の存在が全ての人にとって夢であったらと思う反面、こうして文字に残すことが矛盾を物語っている。ただ、私の魂が巡らないことを希望していたい。